「いいよ」と言うと、表面上の平和を守れて、相手の罪悪感を消すことができます。でも、あなた自身の気持ちはどうですか。「いいよ」と言ったあなたは、本当に気にしなくなった、もう怒っていない、スッキリしているのですか。


相手が必死に「ごめんなさい」と言えば、「いいよ」と答えないのは失礼なことだと考えてしまいがちです。


相手は自分の部下ではない、あるいは大きな過ちを犯さない限り関係を絶ちたくないといった理由で、たとえ相手がムカつかせたり、お気に入りのコップを割ったり、非常識に他人の前であなたのプライバシーを話したりしても、後で申し訳ない顔をして「ごめんなさい」と言えば、「いいよ」としか言えなさそうです。

これは慣習的な決まりごとなのです。「いいよ」と言わないのも選択肢の一つですが、心が狭い人だと思われるかもしれません。しかし一方で、容易くこの三文字を口に出したら、「今度また謝ればいい」という考えが顔に浮かんでいるような、相手のほっとした顔を見ると、またムカついて、頭に血がのぼってきます。

ある日、私は友達と約束していたのですが、いくら待ってもなかなか来ません。約束の時間より10分遅れたから、どこにいるかとメッセージを送りました。「ゆっくりしていいよ、まだ途中だから、ちょっと遅れるかも」という返事でした。ゆっくりだって、もう着いたけど、そんなこと早く言ってよ、遅れてから言うのはなんなの。しかも聞かれてから言うのは一体どういうこと、と、イライラしましたが、気持ちを抑えて本を読んだり携帯をいじったりして、さらに20分が経ちました。そして、友達がようやく慌てて来ました。

「ごめん!バスがなかなか来なくて」友達は申し訳ない顔をして謝りました。気に食わなかったけど、がんばって「いいよ」と言おうとしましたが、その3つの文字の中の1つも、なかなか口に出ませんでした。それは、「いいよ」という言葉の力が、私の怒りと対立しすぎて、爆発してしまいそうでした。

このとき私は初めて、反射的に「いいよ」と言わず、自分に「どうして本音に逆らう言葉を口にするの」と聞いてみました。

「いいよ」と言うのは、ただの礼儀作法で、大した言葉ではない。口に出しても問題ない、と思われていますが、言葉には力があるのです。言葉が心と呼応できない、つまり本音に逆らうことを言うと、心が歪んで、苦しくなります。そして時間が経つと、その苦しみは心の荷物になり、昼も夜もあなたを苦しめます。やがて、苦しみが嫌だから、自分の気持ちに触れず、心を鈍感にしてしまいます。


軽く口にする「いいよ」に伴う代償は大きいです。自分の気持ちを歪めるだけではなく、挙げなければいけない後遺症が2つあります。

後遺症その1:簡単に人を許した結果、相手が過ちをくり返す

一部の人々は、他人からの「大丈夫」に依存して生活しています。

彼らは自由気ままに生きていて、だいぶ遅れても、仕事をきっちりしていなくても、渡したファイルを失くしても、いつも慌てて、捨てられた子犬のような目で「ごめんさい」「申し訳ございません」と言い、たくさんの言い訳をします。

もちろん、過ちを犯すことは誰にだってあります。はじめは、相手が必死に謝っているのを見たら、かえって申し訳ない気持ちが湧いてきて、「慌てなくてもいいよ、気にしないで」と慰めます。さらに相手の立場に立って、「私だったら、こんなミスを犯したらきっと大パニックだろう」と考えます。時間が過ぎると、大パニックになるのはあなただけということに気づきます。何度も許されると、この世界は優しいから、寝坊しても、旅行の持ち物をちゃんと確認しなくても、みんなが何とかしてくれるから、何があっても謝ればいいんだろう、という彼らのパターンを作り出します。「ごめん」というのはまるで印籠のようで、それを出せば、みんなの気が収まり、彼ら自身も救われます。

世界の嫌な部分は、いい人の「いいよ」によって生み出されたのかもしれません。一見平和を守りましたが、わがままな人はまたナイフを振り回し、ルールを守る人を傷つけます。

後遺症その2:私の気持ちは、無視されてもいいんだ

相手が本当にそのつもりではなかったら、もう二度としないかもしれないから、「いいよ」って言ってもいいよね、と思うかもしれません。

もちろんいいです。でも、あなたに聞いてみたいです。それは心からの「いいよ」ですか?こう聞かれた人の多くは黙り込んで、頭を横に振って「本当は怒っている。でも失礼にならないために、仕方なく言っただけ」と答えます。

ここに注目してください。容易く「いいよ」と言うのは、自分の気持ちを無視したのも同然です。

しかも、「いいよ」と言ったものの、自分の怒りに向き合えず、不機嫌な顔をして、相手をぶつぶつせめて、裏で悪く言う人をよく見かけます。ほら、全然「いいよ」ではないのに、どうして言ったのですか。好きじゃない人に無理やり「好きです」と言うくらい、同じくらい苦しいのではありませんか。

写真|Pixta


自分の気持ちを大事にする:「容易くいいよと言わない」という試み

頭に来ているときは、無理して「いいよ」と言って、自分を苦しめることはありません。まだ取り返せるのなら、相手がひたすら謝っているときに、「いいよ」と言わず、やり方を変えて、優しく「わかった。じゃあどうすればいいと思う?」と、話を解決策を考える方へ移します。

もし取り返すことができない場合でも、相手の謝罪に対して「いいよ」と言わなくてもいいです。心にダメージを与えずに、「オッケー、わかった」など、本音に逆らっていないことを言ってみましょう。機嫌が直ってから「いいよ」と言えばいいです。

解決策を考えるか、ただ「わかった」と言うだけか、どちらでも本音に逆らっていませんし、心を損ないません。空気が凍るのを避けたければ、平然として「帰りに気を付けて」、「じゃあ仕事を続けて」「早く片付けて、また来週の月曜日にしましょう」などと言ってみましょう。平和を守れるし、自分の気持ちに素直になれます。すぐ「いいよ」と言わないだけでも、自分に対する大きな優しさなのです。

昔の私も、どれだけ怒っていても、歯を食いしばって「いいよ」と言う人でした。あの日、遅れた友達に「いいよ」と言わず、怒っている気持ちに向き合い、うなずいて「寝坊した?」と聞いて、友達に弁解させて、その後おしゃべりして、別れるときはもう気にしていませんでした。友達がもう一回「遅れてごめん」と謝ったことに対し、私はようやく心から「いいよ、気にしないで」と言いました。

ふしぎな話ですが、ただの三文字なのに、怒っているときに言うと、気持ちを抑えた不快感を覚えます。時間が経っても、その人を思い出すと不快感がまた浮かんできます。反対に、気が済んでから「いいよ」と言ったほうが楽で、また思い出すこともありません。

それは心と言葉が矛盾していない場合に生み出す、本当の「許し」なのです。

あなたもつい「いいよ」と言ってしまうことがありますか。ここで、言葉が心のままに従えるように、「言わなくてもいい」と言う練習をするのを強くお勧めします!